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作り手の「暮し」 まつみ版画

2020年05月28日

小さな木版画雑貨を制作してる『まつみ版画』です。

農家の築120年ほどの古い家に暮らすようになり

はや9年ほどになります。




リフォームを頼む余裕もなく、旦那と二人で

あちこちいじり、つぎはぎのような部分ばかりです
😂



でも、古い部屋を好きなように手直ししていくと

このイメージに似合う絵柄?とか

考え始めると、何か作りたくなっていく 楽しみがあります。



でも農家の家は、庭も空き地も広く

雑草を抜く、さらに道路沿いの垣根代わりの

庭木の手入れもしなくてはと、やることがいっぱいです。

制作からの逃避
も簡単に

どこにでもあるのです。


前に住んでいた方が、大切に植えられた庭木でしょうが

庭のない家で生まれ育った私です。

ただ、我流で枝を落とす程度のことです



先日 、5月も終わりごろ

コウヤボクという庭木の新芽に惹かれて

伸び放題だった枝を切って手入れしていたら

幹と枝と葉っぱの茂みの中で

白く丸い形を発見

なんと鳥の卵でした。

秘密基地を覗いたような、怖さと

命ある卵の生なましさに、胸がどきどき 

するのでした。

翌日、そっと遠目で覗いて見ると

小さな鋭い光が、こちらを見ていて 顔でした。

卵を温め中の、親鳥の姿です。





人間の足音に、警戒して卵を放って逃げたり

しないかな?とか心配になり

たまに覗いて見たり。

自宅の周りでスケッチした絵には

植物や鳥が多く、それが版画になりと

毎日の出会いや発見を

形として残せてるんなだと、

そう考えると少し嬉くなります。

今年のコロナの影響と私的理由で

木版画製作から少し遠のいているこの頃ですが

こうして文にして見ることも 大切なことと思えました。



版画、手作り人形、古民家、アジアの雑貨


いろんな物が入り混じった我が家ですが

工房巡り 気楽に遊びに来てみませんか。

  

つくり手の「くらし」 工房まめや

2020年05月22日

この時期にやる恒例の「家事」




薪割りです。


木工を家業としているので、燃やす木はいくらでもあると
思われるかもしれませんが、
家の薪ストーブで一冬過ごそうと思うと、
我が家では5トンの薪を買います。

チェーンソーで玉切りのあと斧で割っていきます。

木工では使わない筋肉を使うので、
あちこち痛くなりますが、これで運動不足解消!







  

山里の春を告げる色を織る COCOON工房

2020年05月15日

 


4月飛騨地方はまだまだ寒く、
雪で閉ざされた飛騨の冬に
春の訪れを告げる野の花の色が
この布を織りなしています。
その草花を紹介します。


『オオイヌノフグリ』

 


雪の下でじーと寒さに耐え
雪が溶け始めると地面を這うように
日差しを浴びて小さな花達が顔を出します。

この花の優しく淡いブルーが
飛騨の遅い春の訪れを告げてくれます。

その隣に
私が主役!と
レースが何重にもなったドレスを
着飾った野の草、
『ヒメオドリコソウ』

 


頭は紫色、裾は緑色へと綺麗なグラデーションに
小さなピンクのお花を身につけています。
たくさんの踊り子が咲く姿は
とても楽しげで 春をいっそう陽気に彩ってくれています。

飛騨の山里を彩る野の花のいろを
糸に、そして布へと織り上げています。

暦はすでに5月になり飛騨の山里も
ようやく八重桜が満開になり、
濃いピンクが眩しいくらいになりました。













  

つくり手の『くらし』 芸術鑑賞は”実”である 造形家たしまねん

2020年05月02日

新型のウィルス騒動が本格的になってから3ヶ月ほど経ちますか。
その間僕は、2月の終わりからの一週間は神戸三宮での展示会、3月下旬の10日間は東京の阿佐ヶ谷のギャラリーで開催した2人展を開催、参加しました。
お客さんは残念ながら少なかったけれど、その分じっくり見ていただきました。




阿佐ヶ谷での展覧会の様子


しかし、4月5月6月には大小6つのイベント、展覧会がありましたが中止が決まっています。
また、3月の上京の際、せっかくなので展覧会、映画を観ようと思っていたのですが、軒並みやっていなくて残念な思いをしました。

先日作家の高橋源一郎氏がパーソナリティーを務めるラジオ番組で、現代詩作家、随筆家の荒川洋治氏が2003年に出版した「忘れられる過去」を取り上げていました。
その中でこんな一節があります。

「文学は実学である」
 この世を深く豊かに生きたい、そんな望みを持つ人に成り代わって才覚に恵まれた人が、鮮やかな文や鋭い言葉を駆使して本当の現実を開示してみせる、それが文学の働きである。
 だが、この目に見える現実だけが現実であると思う人が増え、漱石や鴎外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じるのは容易ではない。文学は空理空論、経済の時代なので肩身がせまい。
 文学は経済学、法律学、医学、工学などともに”実学”なのである、社会生活に役立つものなのである、と考えるべきだ。特に社会問題が人間の精神に杞憂する現在、文学はもっと”実”の面を強調しなければならない。
(中略)
 ー(優れた)文学作品を知ることと知らないこととでは人生は全く違うものになる。それくらい激しい力が文学にある。読む人の現実と生活を一変させるのだ。
 文学は現実的なもの、強力な”実”の世界なのだ。文学を”虚学”と見るところに大きな誤りがある。

現在世の中が置かれている状況には賛否両論あろうかと思います。
新型のウィルスが国内に持ち込まれてから、恐らく半年になろうとしています。
各時期をどれだけ分析されているのか?現在出ている様々な数字の分析もしっかり多方面からされているのか?先の見通しは果たして広い分野から分析されているのか?
それらが不明瞭のまま学校は閉鎖され、文化活動も制限されています。
”実”とされる医療、医薬品、食品などは不自由とされないのですが、美術鑑賞、舞台や音楽、映画鑑賞を始め、図書館利用や海岸散歩、公園の遊具まで”虚”とされ、我慢を強いられています。
”実”とされるものだけでの生活の2ヶ月、もしかすると3ヶ月がもたらすものが、特に子供達や若者の将来にどう影響するか、とても心配です。


うちの近所の公園は閉鎖されていませんでした
誰も遊んでいる子供はいなかったけど


荒川洋治氏の「文学は実学である」の項はこう締めくくられています。

 科学、医学、経済学、法律学などこれまで”実学”として思われていたものが”実学”として怪しげなものになっていること、人間を狂わせるものになってきたと思えば、文学の立場は見えてくるはずだ。(荒川洋治著『忘られる過去』より)

美術館やコンサートに自由に行け、子供達が遊びまわる世界に早く”戻す”ことに期待しています。